うまくいかないときこそ

やる気はある。

だが、情報不足、勉強不足で、なかなか先に進まないことはよくある。

どうしたものかと、焦燥感がつのるが、

こればっかりはどうしようもないと思うしかない。

そこからがむしゃらに情報を集めたって、

そこからどんなに勉強したって思うようには進まない。

経験、それがないことには先に進まないんだ。

やる気はある分、経験の無さで先に進まないのは隔靴掻痒であるが、

でも視点をかえると、

今日やったことは、そのどうあがいても手に入れられない経験の一部になるんだ。

継続が苦手な私だが、

歯を食いしばって、今やるべきことをやるしかない。

転々ころころ

思い通りにいっていないときほど、

現実逃避のように(いや、もはや現実逃避であるが)

次はこれをしたらいいのでは、と考えを巡らす。

情報収集が止まらなくなって、

本当にそれらをやるというところまでいってしまう。

ひとつのことを、一生涯ずっと、ということができないたちだと、

ようやく気づいてきた。

ものごとを始めるのに、早いも遅いもないとはいうが、

それはそのものごとを始めて生涯続けられる人にいうものだとおもっているから、

私みたいに、少しやってはやめしている人には適さないだろう。

一つの会社に一生涯ということが当たり前だった世代は、

私みたいなのを、根性がないとかいうのだろう。

性格、たちなのだから仕方ないと思って、職を転々ころころすべきだろうか。

 

モネからリヒター ポーラ美術館を訪ねて

ポーラ美術館のある箱根はあいにくの雨模様。

その雨すら、作品のよう。

大きな荷物をロッカーにつめ、いざ作品鑑賞へ。

モネからリヒターへ(ポーラ美術館開館20周年記念展)

観光名所であるし、入ったときより、館内は混雑していた。

ルノワールから始まり、ピカソ、スーラ、モネと続く。

ピカソは初めて自分の目で作品を見たかもしれない。

モネの”国会議事堂、バラ色のシンフォニー”は吸い込まれるようなそんな感覚がした。

キュビズムは正直わからないが、自分の目で見たという事実が、経験のような気がする。

アンリ・マティスの色鮮やかなタッチは心がウキウキするような感覚。

リュート”の赤色は気分まで明るくするようだ。

日本の画家の作品ももちろんある。

村山槐多の”湖水と女”は、あのモナリザを想起させた。

レオナール・フジタ、いや、藤田嗣治といおう、

乳白色のなんともいえない藤田独自の色合いは、毎回さすがと思わせる。

初めてみたが、”ベッド上の裸婦と犬”は、モネのオランピアのオマージュのよう。

日本人画家でもとても目を引かれた松本竣介

夭折したことしか知識がなかったが、”街”という作品で、

緑なのか、緑がかった青に包まれてる街に、ズズっと引き込まれた。

なぜなのかここで言語化できないことが悔やまれる。

周りに鑑賞者が多数いたためできかねたが、もう少しみていたかった。

展示は絵画だけでなかった。

アニッシュ・カプーア、全く知らなかった作家だが、

”Mirror”はとてもおもしろい作品だった。

直径1mくらいの黒色の円形なのだが(私には浅い漆塗りの椀に見えた)

その作品の前に立ってみると、逆さになった自分が浮き出て映り込むのだ。

その現象が面白く、年甲斐もなく作品の前で左右に揺れてみたりした。

まだまだ見どころのある展覧会だったが、ゆっくり見れなかったことが残念。

展示室が別れているという点がよかったように思う。

次に何があるのか、というワクワク、期待感が生まれたからだ。

美術館は展示物を見るだけでなく、こういった構造を生かした魅せ方があるから面白い。

この展覧会は9月6日で終了してしまったが、

次の17日から始まった、ピカソ 青の時代展も期待したい。

 

虚しい買い物

なんだか満たされなくてモノを買う。

必要なのか、そうでないのか、そんなことはお構いなしだ。

人は、自分の出せる範疇で購入しているならいいんじゃないか、そう言う。

欲しいものを買うこと、それが手元にあり使用することで気分が変わるのならいいんじゃないか、そう言う。

確かに、買い物依存症のように、収支のバランスが大きく崩れるほどではない。

いいのか、そう自分を納得させようとするが、やっぱり少し引っかかる。

私は十何年も前に、買い物依存症一歩手前になったことがある。

破産するほど、何十万もするようなものを買うわけじゃないが、何千円単位のものを見境なく買う感じ。

必要ないなど関係なし。

それを当時かかっていた医師に話すと、

それまで購入したものの値段をすべて紙に書かせ、通帳の引き出し記録、残高を照らし合わせよく見てみるよう指示された。

多くは言わない。なぜなら指示したことをすることで医師が言いたいことは分かるはずだからだ。

その当時の心境は詳しく覚えているわけではないが、その時は診察室で愕然としたことを覚えている。

今はどうか。

収支を把握し、範疇内だ。

でも、このままでいいのか。ここから暴走してしまうことはないのか。

それがわからないし、自分を信用することができない。

心が満たされていない自覚があるからなおさらだ。

本当に自分をコントロールすることは難しい。

他責

自分が間違っていないと思うあまり、他人が思うように動いてくれないと不満がつのる。

誰しもあることなんだろうが、その感情は自分にものすごくダメージを与える。

誰に当たることも愚痴ることもできずに、悶々と考え、心が淀む。

それが心底辛い。

白黒つけたがったり、完璧主義的なところがあるのは自分でわかっているが、

どうも心で解消できない。

感情を吐き出すために、ノートに書き綴るが、堂々巡り。

自分は自分自身でコントロールしようと思えばできることだが、他人をコントロールはできない。

そもそもコントロールしようとすることが間違い。自分も他人も。

大人なのだから、社会において自分をある程度コントロールすることは必要なスキルだと思うが、

感情を完璧にコントロールできる人なんていないんじゃないか。

そもそも、世の中はグレーや50%60%のことが多くて、

自分が目指す白黒、完璧にと思っていることなどはほぼ存在しない。

善人にも悪意はあるし、意地悪に見える人も、家族には優しいかもしれない。

自分だって、正しいと思っていることは本当に正しいか、わかっていないじゃないか。

あるのは正しいと思う自分のこだわりであって、世の中的には正しくはないのかもしれない。

他人に憤っているときは、そういう独自のこだわりが通じないときに他人をコントロールできない、

あまりに子供じみた感情のようだ。

不満がつのっているときは、他責になっていて、

自分に目を向けられていないことがある。

自責になれということじゃない。

コントロールできもしない他人に目を向け、自分の心にダメージを与えている自分のこだわりを、

一度見直すことが必要のように思う。

前述したように他人もコントロールできないが、自分の心もコントロールはなかなかできない。

だから、今日も今日とて堂々巡りだ。

 

 

自分へ

今月は調子よく過ごせているなと思った矢先、体調を崩す。

あるよね、こういうこと。

前は、うまく行かない自分を責めていたけど、

今は自分を責めたってどうしようもないことがわかってきた。

確かに、体調を崩すことで誰かの迷惑になっていることもあるから、

責める気持はあっていい感情だと思う。

逆に、迷惑をかけない人間なんていないわけだから、開き直ってもいいとも思う。

でもそう思っても心の中って簡単に処理できないよね。

自分なんて、世の中にはいらない存在だ、なんて飛躍して考えてしまう。

あとから考えると馬鹿だな、って思うよ。

辛いのは今だけ。

時が経って、あ、前進もうってときに歩き始めればいいって思う。

自分を責めていたって、歩き始めようとする足かせにしかならないことを、

きちんと理解したら、自分を責めず歩き始めることができる。

さあ進もう。

谷川俊太郎 芝生

高校生のころ、谷川俊太郎の「芝生」という詩で”風”を感じたことがある。

それは文学少女でもなかった私に衝撃だった。

その詩との出会いはなんのきっかけだったかは定かではないが、

当時の国語の先生が貸してくれた詩集にたまたま載っていたのではと思う。

風が吹く、抽象的で申し訳ないが、

詩を読んで、確かに私は、”芝生の上に立ち””風を感じた”。

芝生という詩は有名な詩ではないが、詩集にはたまに載っている。

上述したように私は文学少女ではなかった。

たまに小説や雑誌を読む程度。

その自分がなぜ風を感じたのか未だに不思議でしょうがない。

感受性が豊かで、とかそういうことをいうつもりは毛頭ないが、

一つ言えるとすれば、

谷川俊太郎の詩の波長とその時の自分の波長がリンクしたのでは、と思っている。

現に、今読んでも、風は吹かないし、その当時国語の先生にこのことを話した際は、

キョトンとされたような覚えがある。

多分、不思議な感受性の学生にしか感じなかっただろうと思う。

その経験で、独自の感じ方を持っていると自分を特別視したわけではなく、

私が思うのは、波長が合えば誰しも、その作品小説でも詩でも絵画でも何でもいい、”風”を感じるのではということ。

その経験以後、心に残るものにたくさん出逢えど、風は感じていない。